前回のパリピ孔明の記事に引き続き、パリピ孔明の面白さのひとつである、孔明が駆使しする兵法や、オーナーとの故事成語のやり取りにて出てきた兵法や故事成語はどのようなものなのか?
本記事では第10話11話12話で出てきた「呉下の阿蒙にあらず」「草船借箭」「赤壁の戦い」について解説します。
【呉下の阿蒙にあらず】 第10話「DREAMER」より
赤兎馬カンフーとのラップバトル後に、KABE太人を評した小林オーナーの「呉下の阿蒙にあらず、だな」とのセリフ。それに孔明が「呂蒙ですね」と応じました。
「呂蒙」とは?「呉下の阿蒙にあらず」とは?
「呂蒙」とは?
〇名前・・・呂蒙(りょ もう)
〇字(あざな)・・・子明(しめい)
〇出身地・・・豫州汝南郡(現在の安徽省阜陽市あたり)
〇生年・・・178年
〇没年・・・219年(42歳)
若い頃に、呂蒙を馬鹿にした役人を斬り殺したがその後に自首。その際に孫策に見出され配下となった。
孫策の死後は孫権に仕え、赤壁の戦い等で武働きで大きな活躍を見せる。
ある時、孫権から学問の大切さを説かれた呂蒙は学問にはげみ高い教養を身に着けた。(後述の呉下の阿蒙にあらず)
樊城の戦いでは蜀の関羽を捕らえ処刑している。
関羽についてはこちらから
「呉下の阿蒙にあらず」とは?
武働きで才能を発揮していた呂蒙であったが、主君である孫権から学問の大切さを説かれた。
はじめは難色を示していた呂蒙も、孫権の説得により勉強をはじめるととなった。
ある時、呉の総指揮官である魯粛と久しぶりに会った際に、呂蒙は魯粛の質問に難なく答えるだけではなく、いくつかの策まで与えるほどであった。
魯粛はそれに驚き「呉下の阿蒙にあらず」(呉の幼い呂蒙ちゃんじゃない)と評した。
対し呂蒙は「士別れて三日すれば、即ち更に刮目して相待すべし」と答えたという。
「士別れて三日すれば、即ち更に刮目して相待すべし」は「男子三日会わざれば刮目してみよ」という表現で良く知られている。
【草船借箭(そうせんしゃくせん)】 第11話「草船借箭」より
AZARIE陣営の仕掛けたプロモーションを利用した英子陣営の孔明。
小林オーナーの解説にもあった通りに、これはかつて諸葛孔明が10万本の矢を得るために用いた策であった。
草船借箭とはどのような策か?小林オーナーよりちょっぴり詳しめに解説します!
草船借箭(そうせんしゃくせん)とは?
赤壁の戦いの最中、周瑜は諸葛孔明に「10万本の矢」を用意するように依頼。諸葛孔明は快諾し、3日で用意することに。
そしてその約束の日、諸葛孔明は20艘の船に藁束を乗せ、濃霧の長江を曹操軍に向かわせた。
敵軍の奇襲かと慌てた曹操軍は敵船にむけ大量の矢を射かけ、藁束にはびっしりと矢が刺さっていた。
諸葛孔明はまんまと敵軍から10万を超える矢をせしめ、周瑜との約束を果たしたのであった。
周瑜とは?
〇名前・・・周瑜(しゅう ゆ)
〇字(あざな)・・・公瑾(こうきん)
〇出身地・・・揚州廬江郡(現在の安徽省あたり)
〇生年・・・175年
〇没年・・・210年(36歳)
知略武勇に優れた呉の名将。
廬江郡の名家の出であった周瑜は、若い頃より同い年の孫策と友誼を結び親交を深めていた。
孫策と周瑜はそれぞれ大喬と小喬という姉妹を妻に迎えている。
26歳の頃に孫策が暗殺されると、周瑜はその弟の孫権に仕えた。
【赤壁の戦い】 第12話「英子の歌」より
第12話冒頭のナレーション、渋谷でにらみ合う英子陣営とAZARIE陣営を、劉備と孫権の同盟軍と曹操軍が長江を挟みにらみ合った赤壁の戦いに例えられました。
赤壁の戦いとは?
赤壁の戦いとは?
208年に呉蜀の連合軍と魏軍が長江をはさんで対峙した戦い。
消極的であった孫権に対し、周瑜や諸葛孔明が開戦を主張、戦うこととなった。
しかし大軍の魏軍に対し、寡兵の呉蜀の連合軍は攻め手を欠き攻めあぐねていた。
呉の黄蓋は火攻めを提案。魏軍に対し降伏すると嘘の情報で欺き接近。油をしみ込ませた枯草を積んだ船を魏の船に激突させ火を放った。
火は魏軍の陸の陣にまで広がると、周瑜は魏軍に突撃。魏軍は大敗を喫した。
他にもパリピ孔明の記事がありますので、興味のある方はこちらをどうぞ!
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