パリピ孔明の面白さのひとつに、孔明が兵法を駆使して月見英子のバックアップを行うことや、オーナーとの故事成語のやり取りがあります。
出てきた兵法や故事成語はどのようなものなのか?解説します。
【泣いて馬謖を斬る】 第1話「孔明、渋谷に降り立つ」より
孔明が面接を受けた際のオーナーとのやり取りででてきた「泣いて馬謖を斬る」。
どのような出来事だったのでようか?
【泣いて馬謖を斬る】とは?
228年、諸葛亮が大軍を率いた魏との戦。
その際に諸葛亮より先発部隊の指揮を命じられたのが馬謖。
生前の劉備からは評価されていなかった馬謖。しかし諸葛亮は彼を評価しこの大役を任せたのであった。
馬謖に対し街亭の守りを命じた諸葛亮でしたが、しかし馬謖は諸葛亮の指示に背き山上に布陣。
魏の張郃に大敗を喫すりことになる。いわゆる街亭の戦いでの出来事。
この命令違反に対して、諸葛亮は軍法に従い馬謖の処刑を命じた。
この出来事が「泣いて馬謖を斬る」という故事成語となった。
「規律を守るために、個人的な思い入れは捨てて処罰する」ことを指す言葉となった。
ちなみに馬謖はこの処刑の決定に対し、諸葛亮のことを父のように慕っており、生前の交友を大切に思ってもらえるなら恨みはしない。という趣旨の手紙を残している。
馬謖とは?
〇名前・・・馬謖(ば しょく)
〇字(あざな)・・・幼常(ようじょう)
〇出身地・・・荊州襄陽郡(現在の湖北省襄陽市あたり)
〇生年・・・190年
〇没年・・・228年(39歳)
〇家族・・・兄は馬良。(劉備に重用された武将、政治家。眉に白い毛があり白眉と呼ばれた。これが現在、特別に優秀な人物を指す言葉とて使われている白眉のもとになった。)
【三顧の礼】 第1話「孔明、渋谷に降り立つ」より
孔明が英子に対し軍師になると宣言した際に言った「三顧の礼」。
諸葛亮を語る上では欠かせない三国志の有名な逸話です。
【三顧の礼】とは?
207年、劉備が諸葛亮が軍師に迎えた際の出来事。
当時、劉備の臣下であった徐庶の「諸葛亮は臥竜(天に昇る時を伏して待つ竜)であり会うべきだ」との薦めにより、諸葛亮に会いに行った劉備。
1度目、2度目の訪問では会うことができず、3度目の訪問でようやく面会が叶う。
お互いの人柄や知性に魅かれあい、諸葛亮は軍師として迎えられた。
この出来事が「三顧の礼」という故事成語となった。
「礼儀を尽くし能力のある人を迎え入れること」「地位のある人や目上の人が、礼を尽くして仕事を頼むこと」などを指す言葉となった。
この逸話について正史では「三度の訪問で会うことができた」とだけ記されている。
物語によっては「劉備の行いに感激し臣下となることを決めた」「諸葛亮が自らの価値を高めるためにすぐには会わなかった」等、様々な描かれ方をする。
劉備とは?
〇名前・・・劉備(りゅう び)
〇字(あざな)・・・玄徳(げんとく)
〇出身地・・・涿郡(現在の河北省あたり)
〇生年・・・161年
〇没年・・・223年(63歳)
〇家族・・・子は劉禅(蜀の第2代皇帝)等。
〇配偶者・・・穆皇后、孫夫人(孫尚香)、甘夫人
蜀の初代皇帝で三国志演義では主人公的に扱われる人物。
徐庶とは?
〇名前・・・徐庶(じょ しょ)
〇字(あざな)・・・元直(げんちょく)
〇出身地・・・豫州潁川郡(現在の河南省中部)
〇生年・・・不明
〇没年・・・234年?
元は名のある家柄ではなかったが劉備と出会い臣下となった。
その後、長坂(ちょうはん)の戦いで劉備が曹操に敗れた時に徐庶の母が捕虜となてしまい、徐庶は曹操のもとに下った。
曹操に登用され魏で重職に就き、亡くなるまで曹丕、曹叡のもとで魏に仕えた。
他にもパリピ孔明の記事がありますので、興味のある方はこちらをどうぞ!
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